『Crazy Dolls』河原木監督とパンクス達とのパンクな日々
寄稿:渡辺まちこ( 『Crazy Dolls』主演)
映画『Crazy Dolls』W主演のタツヤ(中村達也 17歳)と私(22歳)とカメラマンの山崎のりあき君は早朝からの撮影の前日から何度か、河原木宏尚監督のアパートのコタツに雑魚寝して合宿した。翌朝夜明け前に二台のアメリカンバイクにニケツして4人で名古屋港近くまで行って、タツヤと私がノーヘルでほぼフルスロットルで走るシーンを撮影した。ハンドルがビリビリ振動して、前輪が浮いてウィリーしそうになり、死の恐怖を感じた事は今でもよく覚えている。
監督の実家は、東北のある町の名家である。生まれた瞬間から、医者となり後を継ぐ事を運命づけられた河原木青年は、医大を一浪し、東京の予備校に入学した。平和な故郷とは真逆の、都会の喧騒とエログロナンセンスを全身で感じた河原木青年の頭はある時ついに爆発して、大島渚監督が呆れ果てるほどの超問題作『乱・Easter』を撮映した( 河原木監督はいつも、映画の"撮影"の事を"撮映"と表記していた)。
冒頭数分後に、「やってらんねーぜ」という男の声が入っているが、それは監督の声である。そして18歳で上京した 河原木青年の心の声に違いない。
河原木監督は、ご両親と親戚一同を集めて故郷で『乱・Easter』の上映会を行なったと聞いた。映画が終わり電気を付けた時のその場の空気は、体感的にマイナス50度位だったのではないだろうか。
彼はあの映画を家族に見せる事で、やっと長年の呪縛から解き放たれたのだと私は想う。
彼はその後、紆余曲折を経て医者となり家業を継いだが、2001年エイプリフールの日に42歳で早逝してしまった。河原木監督と同じ愛知医大の映研で、同い歳の長谷川久監督も遠藤豆千代さん(なぞなぞ商会・パトラ風色劇場)も、3人とも医大生(豆さん以外は医者になった)なのに早逝してしまった。
今回、UNDERGROUND CINEMA FESTIVALの多大なるご尽力のおかげで、両監督の作品がデジタル化・上映・保存の運びとなったのは、これ以上ない、本当に有り難い事である。この場をお借りして、心よりお礼を申し上げたい。
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1981年に名古屋の中京テレビが、愛知医大映研を取材した貴重な映像がYouTubeにアップされている。
河原木監督(Rolling film 代表)が映画を作っている目的や、博多での上映会の事などを語っている。長谷川監督は画面左方で、上半身裸・黄色のパンツをはいて立っている。また、河原木監督『乱・Easter』、長谷川久監督『ねんねこりんりん』の一部が、この番組(動画)内で放送されているので、ぜひご覧いただきたい。
[YouTube]ローリングフィルムオブ名古屋紹介/1981 ぴあフィルムフェスティバル作品ほか(愛知医大映画研究部ほか)3分55秒 https://youtu.be/B4YZ1R-e5QA
*下記は河原木宏尚監督による『Crazy Dolls』解説
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